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ジョンの死

2012.10.11.06:37

ポーランド
ポーランドの風景

ジョン・デンバーが亡くなってから、明日の10月12日でちょうど15年になろうとしています。私がこうしてこのブログをはじめたのも、ジョンが亡くなり大好きだったジョンのことをみんなと分かちあいたかったからです。

このブログにいつも素敵なメッセージをくださっている新垣巽さんからずっと以前にジョンが亡くなった当時の思い出話を投稿していただいています。

今日はそのメッセージを皆さんとシェアしたいと思います。

みなさんの思い出もどうか聞かせてくださいね☆


ジョンの死                     
世界中の人に愛されたジョンがさようならの一言も言わずに天国に召された年1997年は私にとっても節目の年でした。

その年の秋口から開始したポーランドのコニンという田舎町での3ヶ月をかけた地図作成プロジェクトも11月頃になると終盤を迎え、下旬にはやっと帰国できるような様相が見えてきました。

約1,500平方キロの地域に無数に点在する、中世以降に建設された橋の位置、竣工した年、状態などを確認し、それを地理情報システムの中にデータとして取り込んでいく作業で、緻密な情報の正誤解析、データの入力ミス確認などからくる恐ろしい程のストレスと、テレビも新聞もポーランド語だけの環境の中での孤独な戦いでした。

朝は7時から業務開始、午後4時に現地スタッフが帰宅した後は自分の安全のためと、高価な機械の盗難防止のために部屋の入口に二重に取り付けてもらった格子檻に鍵をかけて夜半まで作業、まるで刑務所の中で仕事をしているような状態でした。


11月の下旬、帰国のため車で4時間ほど離れたワルシャワに移動。夕方、ホテルの窓から暮れゆく、雪に覆われた美しいワルシャワの街並みを眺めていた私は突然右の目にかすかな衝撃を覚え、その場にしゃがみ込んでしまいました。

虫が飛び込んできたのかとも思いましたが、こすっても回復しない状態が続きました。眠れないまま夜を明かし、翌日ワルシャワからドイツのフランクフルトへ移動、空港からそのままゲーテ記念病院へ直行して医師の診察を受けました。

診断の結果、網膜剥離の疑いがあると宣告され、即入院するように言われましたが、治療は日本で受けたいと反抗し続け、帰国するとすぐに医師の再診を受けるという条件でやっと帰国が認められました。

即、会社へ連絡、安静状態を保つため飛行機もビジネスクラスからファーストクラスへ変更し、12時間以上のフライトを絶対安静の状態で帰国しました。


成田には出張のたびに送り迎えをしてくれる家内が待っていました。

いつも笑顔でむかえてくれる筈の顔も心なしか何か元気がなく、どうしたのかとむしろこちらが心配したほどでした。

病気のことを告げなければならないことで、実は私の心も非常に重たかったのです。以下は自宅に向かう帰りの車の中での二人の会話です。これは一生忘れることができないでしょう。



私「どうしたんだ?元気がないね。長い留守番で疲れたのかな。」

家内「・・・・・」(無言という意味で)

私「どうしたんだ?子供達に何か変わったことでもあったのかな?」

(しばらくの沈黙の後に、)

家内「ジョン・デンバーが亡くなったそうです。知らなかったでしょう?」

私「工ッ?」

家内「飛行機の事故だそうです。」

私「えッ、まさか、冗談だろう?」

家内「本当です。ニュースで言っていました。カリフォルニアで。」

私「いつ?」

家内「10月の20日頃だったと思う。」

私「だったら何故前に電話した時には教えてくれなかったんだ?」

家内「だって、あなたのことだからがっかりして絶対仕事に支障を起こすでしょう。だから知らせたくなかったのです。」

それだけポツンと言ってそのまま黙り込んで車を運転する家内の目から涙が流れ出したのを10年以上たった今でもはっきりと覚えています。

いつも彼の歌を口ずさみ、休みの日などは朝からジョンの歌をボリュームを上げて流し、庭の草むしりをしながらもいつも聞きっぱなしにして、もしくは私も歌に併せて音痴な声で一緒に歌いまくって、どれだけ私が彼の歌を愛していたかを家内は知ってくれていました。その後、私もそのまま自宅まで無言で過ごしました。心の中に何かぽっかりと穴が空いたような、大きな空白ができてしまったようで何を話すべきか見当もつかなかったのです。

翌日、私は近くの大学病院で診察を受け、そのまま2週間の入院を余儀なくされました。幸いにも網膜剥離ではなくて、ストレスなどが原因で起きる眼底出血という診断でした。

生まれて始めての入院と車椅子での生活とジョンの死、私は不自由な目での生活でしたが、彼のCDを病室に持ち込んで、またある時は車椅子で病院の周りを散策しながら、それこそ1日中ジョンの歌を聴いて彼の霊を慰めたものでした。

その後、目は回復はしたものの、併発して起きた飛蚊症とその後に発生した左目の眼底出血で現在も悩まされています。(新垣巽)



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comment

Secret

No title

2012.10.28.22:34

こちらにもコメント失礼します。
1997年当時私は中3で、毎週土曜日の選択授業で音楽(Let's sing English songs←直訳すると英語の歌を歌おう、ということですね。)をとっていました。そこで6月頃でしたか、"Take Me Home, Country Road"を歌ったのです。歌ったのはオリビア・ニュートン・ジョンのバージョンでしたが、歌詞がコピーされたプリントを配られ、作者の1人に「ジョン・デンバー」の名前を発見したのです。ジョン・デンバーによるオリジナルは、その後すぐ、ラジオで聴きました。
でもそれから4ヵ月後の10月、TVでジョン・デンバーが飛行機事故で亡くなった、というニュースを聞きました。まだ53歳だったんですね。まだジョン・デンバーの名前を知ってすぐの頃だったので、すごくショックだったのを覚えています。
新垣さんもとても大変な経験をされたんですね。

Let's sing English songs

2012.10.30.06:44

saya様

中学時代に選択で「英語の歌を歌おう」なんて、素敵なクラスがあったのですね。私も学生だったら選択したかもしれないです(^^♪

クラスでジョンの歌を歌って、その後4ヶ月後に亡くなってしまったなんて、ショックですよね。私もこの時にはとてもショックでしばらく口がきけないような状態でした。

でも、このブログをたちあげて全国のファンの皆さんと語らいの場ができたので、それがささやかな幸せになっていますv-238
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