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また台風が通過しました。

ブログはやめると宣言して、もうだいぶ経っていますが、少し保存したいものもあって、

ゴミ記事を削除しながら、ぼちぼちやっています。

昨日の晩には台風の影響で強風警報に避難準備勧告が出て、ヒヤヒヤしました。

でも、うちの周りの木で倒れているものもなく、ちょっと枝が折れたりとか、飛んだものがあったりとか、

ありましたが、事なきを得て、ほっとしました。

ブログのほうも、だいぶ削除して、半分くらいになりましたかね。

また、ぼちぼち削っていこうかと思っています。
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整理整頓

今も懲りずにブログの整理整頓をしています。

思いきって、バサッと切っちゃえばいいんですが、思い出を噛み締めながら、ちょっとずつ削除しています。

フェイドアウトですね。

これが人生かもしれないです。

I love you for my life.

Great!
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西日本集中豪雨 その後 パート2

あの集中豪雨からまもなく一週間が経とうとしています。

うちは通常の生活に戻っていますが、近隣のほうはそれどころじゃなくて、本当に大変です。

テレビの映像でもわかると思いますが、それがすべてじゃないです。未だに通行止めがあって、行けない場所も多いです。

普段車のあまり通らないところを多くの車が通行しているという状態。ある大きなスーパーマーケットもまだ開けないところもあるようです。

うちはまだ、本当にマシです。それ自体感謝ですね。できればボランティアに行けばいいんだけど、主婦として家の用事をするのが一番ですからね。

ボランティアに来てくださる方々に感謝するばかりです。その一方ボランティアの人が来なくて困っているところもだいぶあるようです。それに加えて、この酷署。うちは山で本当はもっと涼しいはずなのですが、耐えられないレベルですから、他の地域は本当に死にそうなレベルだと思います。

皆さん、くれぐれも水分を良くとり、無理しないでくださいね。無理して命を落としたらどうしようもないです。ちょっとのサボりはお互い寛大に片目をつぶってウインクしましょうね。

今日も一日お元気でね・・・(*^^*)
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西日本集中豪雨 その後の経緯

ブログを閉鎖して4ヶ月ほどになりましたが、このたび7月の集中豪雨があり、心配されている方もあるかもしれないので、一時的に記事をアップしてみます。

ブログランキングもやめたので、見にくるファンもいないと思いますが・・・・。

九州、中国、四国、関西と広範囲での集中豪雨でしたが、結果的に広島での被害が一番だったようです。

うちも四日間に渡って、停電と断水にあい、ついでにネットも繋がらず、大変でした。

今こうして記事をかけるのも昨日からネットがたっとつながったからなんです。

とりあえず、やれやれといったところでしょうか。

まだまだ土砂崩れの撤去も済んでおらず、電気のほうも仮復旧なので、また停電もあるかと思いますが、ぼちぼち、普段の生活に戻れそううです・・・・。
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ドイツ系ロシア人3世

私はジョン・デンバーが飛行機事故で亡くなった後、大変な苦労をしてアメリカのファンクラブを探し出し、やっとの思いでファンクラブに入会しました。その後ほどなくして、素晴らしいカラーの表紙付きの会報が送られてきて大感激したものです。でも、悲しいかな。そのころまだ赤ん坊を抱えており、英語を辞書なしでスラスラ読めない私はろくに全体を読み通すこともなく、ひたすら会報を抱きしめるだけでした。

あれから20年近く経って、やっと辞書を出して読みだしたのですから、ちょっと遅すぎなんでしょうね。以前にも斜め読みしてある程度わかったつもりだったのですが、このブログの終わりに近づき、改めて読んでみて初めての発見がありました。今日はその記事の一部を翻訳して、皆さんと分かち合いたいと思います。

アメリカにあるドイツ系ロシア人アメリカ歴史協会(The American Historical Society German from Russia)の機関誌の記事の抜粋です。略してAHSGRと称します。

1998年6月19日、カンザス州ウィチタにおいてAHSGRによるジョン・デンバー追悼集会が開催された。
ジョン・デンバーの親族数名が出席された。ジョンの母であるアーマ・デュッセンドルフ(コロラド州オーロラ)、ジョン・デンバーのいとこのジュリー・デュッセンドルフ(ピアノと歌)、ジョン・デンバーの叔父と叔母であるデイブ&アーバ・デュッセンドルフもトリオとして一緒に歌った。

AHSGR基金委員会メンバーのドクター ティモシー・J・クロバーダンツ氏とオクラホマ州議員のエイブ・デュッセンドルフ氏が講演を行った。

長い追悼集会の最後におよそ600名の参加者が起立して「アメイジンググレイス」を歌い、デュッセンドルフ家にとってとても親しみ深く,心を揺さぶられる讃美歌であり、なおかつ多くのドイツ系ロシア人ファミリーにとって馴染み深い「ゴット・イスト・ディエ・リーベ」(神は愛なり)をみんなで歌った。

彼の声は幾百万の人々に知られていた。彼によって作られた膨大な歌はアメリカ合衆国中と遥か彼方の海外まで知れ渡っていた。確かに世界は彼のことをジョン・デンバーとして知っていたのだった。
しかし世界は1997年10月12日にカリフォルニア沖にて悲劇的な飛行機事故で亡くなってしまった。その二日前に、皮肉にもAHSGRのメンバーの私たちはネブラスカ州リンカンにおいて役員会議で1998年のウィチタでの定期総会やその他のAHSGRのイベントにジョン・デンバーが出演することのことについて言及し、ジョンのすばらしさについて話をしたばかりだった。ジョンは私たちの仲間であり、私たちは彼の歌が実に多くの人々に知られている歌であることを知っていた。

(中略)

ジョン・デンバーの人生と歌はアメリカ文化の一部となり、私たちの特別な思い出や出来事を連想させる歌となった。AHSGRのメンバーの多くの人々が例えば、ジョン・デンバーの歌である「マシュー」を初めて聞いたときに思い起こすものがあった。私は確かに1947年に遡って思い起こしていた。そしてすぐにその歌が好きになった。この細いメタルフレームの眼鏡をかけた若い歌手は私たちの仲間に違いないと、ふとひらめいたのであった。ロッキー山脈の東側にあるグレートブレーンズをよく知っている者の先祖をたどるとロシアからのドイツ人にたどりつくのである。
デンバーがカンザスの農夫であるマシューについて語り、詩的表現で「夏空」と「強い風の吹くカンザス、小麦畑」と歌ったことが驚きであった。

私はAHSGRの役員だったカンザス州、ヒルスボロに住むレイモンド・ウィーベ氏に確認を頼んだ。レイはちょっと調べて私の気づきの確証を得てくれた。ジョン・デンバーは確かにドイツ系ロシア人を先祖とし、彼の本名はヘンリー・デュッセンドルフ・ジュニアだった。この名前は「デュッセンドルフ」と発音し、「デュチェンドルフ」と発音することもある。多くの人が知るように「ドイツの村」という意味である。彼はロシアの中にあったドイツの村の歴史を深く調査しているこの協会の私たちにとってなんといっても相応しいものだった。

どうしてデュッセンドルフからデンバーに変えたか疑問に思う人もいるかもしれない。(これは彼のアイディアではなかったが。)ちょっとレコードのラベルかアルバムカバーに「ヘンリー・デュッセンドルフ・ジュニア」と書かれていることをイメージしてみてほしい。

1976年にAHSGRの大会をコロラド州デンバーで行うことになった。私たちの多くがジョン・デンバーにオープニングに登場してもらい1~2曲歌ってもらいたいと望んだ。しかしながら、私たちは彼との確かなつながりや内部情報が何もなかった。家族メンバーが私にジョン・デンバーのコンサートの後に楽屋裏に入る秘訣を教えてくれた。そして、私はいかめしい顔の警備員がドアで立っているところに行き、「私はデュッセンドルフのつづりが言えます」と言った。するとドアが開いたのだった。

(後略)


記事がとても長いの少しだけですが、アップさせてもらいました。この協会のスタッフの方が書いていますが、会長さんなのかもしれません。ジョンの有名な曲である「マシュー」を聴いて、もしやドイツ系ロシア人ではないかとひらめいたという点に驚きました。いったい彼の歌のどの部分にドイツ系ロシア人を思わせるものがあったのでしょうか?まずはジョンの顔なんですが、以前見たNHKのドイツ語講座に出演していたドイツ語の先生の顔がジョンによく似ていました。なので、顔を見てドイツ系かなという思いは持っていたかもしれないですね。そして、ネットで情報収集しましたが、ドイツ系ロシア人の多くが第一次世界大戦の直前に大勢アメリカに移住したのですが、カンザス,ネブラスカ,南北ダコタ,オクラホマやカナダだったそうです。記事の中で例えば「マシュー」と書かれているところから、「マシュー」だけでなく、他の歌にもそれを思わせるものがあったのでしょうか。カンザス、ネブラスカ、オクラホマ、カナダの地名はジョンの歌とお話しのキーワードですよね。それらの地域にドイツ系ロシア人が遠いロシアからアメリカを目指してわたってきたのですね。

私はこの「マシュー」が大好きでカセットテープが擦り切れるくらい何度も聞いています。まさか、ジョンがドイツ系ロシア人の末裔だなんてこれっぽちも気づきませんでしたが・・・・。やはり同じルーツを持つものにしかわからないキーワードというものがあるのでしょうね。それと、記事の中でジョンのおじいちゃんが18歳のとき、ちょうど第一次世界大戦の直前にアメリカのオクラホマに移住し、そこで将来の伴侶となるアンナさんと出会ったこと、この二人が結婚して12人の子供をもうけたことを知りました。おじいちゃんは病気で48歳の若さで突然亡くなってしまったのです。その後おばあちゃんは一人で12人の子供たちを育てたというのです。この12人の子供の上から2番目がジョンのお父さんだったんですね。

この記事から「おばあちゃんの羽根ぶとん」の歌がジョンの本当の体験によるもので、おばあちゃんの大変な苦労を初めて知ったのでした。のでした。この歌を歌うとジョンはいつも同じネタで聴衆を笑かすのですが、おばあちゃんのやさしさと強さと信念を深く思わずにはいられません。

人を肌の色や人種や信条その他どんなことであれ、分け隔てしてはいけませんよ、と教え諭したのがおじいちゃんとおばあちゃんただったそうです。ジョンが歌手として成功すると博愛主義者として環境保護運動家として活躍しましたが、ドイツ系ロシア人であるおじいちゃんとおばあちゃんの信念の賜物だったんだなぁとしみじみを感じたのでした。

何度聞いても飽きないジョンの歌なのですが、その歌の深い深いバックグランドについて知るとまたその歌に対する思いもさらに深いものになっていくんですね。

ジョンのファンで良かったなぁと、つくづく思いました。

まもなく、このブログも幕を閉じようとしていますが、改めてたくさんのファンの皆さんに支えられました。それをもっとたどるとジョンの熱い思い、ジョンのお父さんとお母さんの情熱、ジョンのおじいさんとおばあさんの信念と苦労もまた、私のブログの見えない支えだったのかもしれません。

ほんと、長~いジョン・デンバー・ファンだったけど、さらに聞くのが面白くなってきました。

今度聞くときにはぜひとも、、アメリカとドイツとロシアの歴史にも思いを寄せてみてください。空を見上げるとアメリカにもロシアにもドイツにもつながりがあるんですよね。

それともう一つだけ書きますね。ジョンの叔父さんであるエイブ・デュッセンドルフ氏による講演の中でジョンの思い出を語ってくれました。親族が集まり別れ際でジョンがおばあちゃんにこんなことを言ったそうです。ジョンはひざまづき、おばあちゃんの手をとって、「デュッセンドルフのおばあちゃん、僕は今度のクリスマスに来ることができません。でも、今年、おばあちゃんにとっても最も幸せで最も平和に満ちたクリスマスをシーズンを過ごせるように願っています」と言ったそうなんです。

エイブ・デュッセンドルフ氏はそのジョンの言葉に深く感銘を受けたそうです。なかなか言えそうで言えない言葉ですよね。ジョンはお母さんにもとっても優しくて、素敵な手紙を書いています。その優しさが彼の歌の中にもにじみ出ているのでしょう。

ますますジョン・デンバーのことが好きになりました。

さて、これで、ブログ「始まりはいつもジョン・デンバー」は終わりになります。まだ読みたい方のためにもう少しだけ開けておきます。

本当に皆さん、ありがとうございました。どうか素敵な充実した人生を送ってくださいね☆







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